
家族でドライブをしていると、
カーステレオから氷室京介の「MEMORY OF BLUE」が流れた。
6歳の娘が言った。
「この人、かっこつけてて、いや」
6歳が氷室京介を“いや”と言う以前に、
氷室京介に反応するのが不自然だと思う。
僕はその一言に妙に引っかかった。
彼女は「いや」と言いながら、曲が終わるまで耳を離さなかった。
つまり彼女は、無意識に“何か”を感じ取っていた。
人は圧倒的なものに出会うと、
それが理解できなくても、なぜか目(耳)を逸らせなくなる。
なぜ6歳の娘は、氷室京介に引っかかったのか。
そして、なぜ世界で氷室京介だけが、
あのナルシズムを許されるのか。
俺をこう撮れ
めちゃイケの人気シリーズ、普段テレビを見ない僕でも
心底おもしろかった。
あれがお笑いとして成立するのは、あのMVは氷室京介じゃないと
成立しないというコンセンサスが日本中にあったから。
こんなコンセンサスを持ってる人は他にいない。
それほど圧倒的な存在感がある。
BOOWYのデビュー当時、同じようなロックバンドは
無数にあったのに、誰も氷室京介の境地までいけなかった。
何故氷室京介だけがここまでの存在感を持ち、ナルシズムが許容されるのか。
実はあれはナルシズムではないのだ。
漫画の主人公すら超えるような実績
事実は小説よりも奇なり。
氷室京介という人間は、ルックスも振る舞いも、
そして生き様までもが、伝説的なキャラクター
バンドとしてのBOOWYが時代の象徴になっても、
氷室自身は“象徴であること”をやめなかった。
これが凄い。
僕たちはこの現象を、氷室京介にしか見たことがない。
スキャンダル、脇の甘い部分も一切無い。
それがどれほど孤独なものか。
それは自己陶酔ではなく、武士道のような美学に近い。
彼の孤独と引き換えに我々は陶酔を享受した。
表面的にはナルシズムに見えるかも知れないが、
その根底に流れるものに自己陶酔の要素が全くない。
一般的なナルシズム
男のナルシズムは嫌われる。
それは、たいていの場合“自己陶酔”だから。
※私を含めて
でも氷室京介のそれは、もうナルシズムという言葉では説明出来ない。
自己陶酔ではなく、自己を作品として維持し続けた意志。
それが、彼の存在そのものをかっこよさにに変えた。
商業的側面
ビジネス的にも成功し続けたというのがまた重要だ。
求められる氷室京介を、氷室京介自身がやり続けた。
それは「期待に応えた」ではなく、
“自分の神話を壊さなかった”という神々しさ。
ビジネス的に成功しているという裏付けで
彼はいつまで経っても過去の人にならない。
最後に
この自分で神話を壊さなかったというのも他ではほとんどみられない。
氷室京介というのは、誰も見たことのないものを見せてくれた人だ。
表面的には、ただ“かっこつけている”ように見える人もいるかもしれない。
生まれ持って特別なスペックであることも事実。
でもそれを最後までやり続けるプロセスに
僕たちはまだ名前のない美学を見た。
娘が感じ取った“いや”の正体は、きっと「美しすぎる孤独」だ。
6歳には早すぎる
だから、もう理屈ではなく──
僕たちは憧れるしかない。